東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
大阪 東京きてから野菜 果物食べなくなったなぁ
東京きてから食べなくなったもの
果物 | 野菜 | |
---|---|---|
秋田 | 食べる | 食べる |
東京 | 食べない | 食べる |
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
Recently, I haven't eaten fruits
実家で暮らしていたころは、少しのぜいたくをする余裕もあり、常温保存するにふさわしい仏間などもあったものだから、よく果物を食べていた。
中学生、高校生のころ、自室での勉強を終えて台所へ行くと、祖母が小さな包丁でリンゴを剥いて出してくれたのが懐かしい。
しかし、上京して一人で暮らしはじめてからは、洗ったり皮を剥いたりするのが億劫だとか、一人で買うには高すぎるだとか理由をつけて、スーパーの青果コーナーに立ち寄らなくなってすらいる。
その代わりなのだろうか、チョコレートやクッキーと言ったスナックの類を毎日買うようになり、家の机の引き出しには個包装された甘味が尽きることがない。
これはおそらく不健康だ。身体的にもきっとそうなのだろうが、何より精神によくない。
同じ甘味とはいえ、果物にはスナックにはないようなまじめさがある。逆を言えば、お菓子を食べる人はなんとなく奔放である。
きっと、マリーアントワネットは「パンがなければリンゴを食べればいいじゃない」と言わないだろうし、
ニュートンがリンゴでなくアルフォートが落ちるのを見たとしたら、万有引力の発見は数十年遅れただろう。
アダムがピザポテトなどを食べてしまっていたら、人類が背負うべき原罪はもう8倍くらいは重かったはずだ。
妄言はこのくらいでいいとして、ここで疑問に浮かんでくるのは、果物と菓子の違いはどういったことによるのか、ということだ。
私は、なんと、驚くなかれ、その答えを知っている。簡潔に気持ちよく言い切ってしまうなら、果物は腐る、お菓子は腐らない、これだ。
我々は変わらずにいたい。それは近代人として基本的な欲求である。我々は生滅の均衡のもとで成り立っている自然を灰色の不動たるビルディングによってパックし、周囲の影響に対し様々に応答する自分の身体・精神も、処方薬や手術によりパックする。
その包装が虚飾に過ぎないことなんて、地球温暖化や健康寿命の減少などの近年噴き出てきた無数の問題をあげるまでもなく誰もが気づいている。安定な生活を享受したくて、気づかないふりをしているというだけだ。
そのようにして作り上げた同質な時空間は我々を制約しない。夏だろうが冬だろうが快適に保たれた建物の中で暮らすことができる。どれだけ遠くにいる人とでも電話することができる。狭い空間であってもランニングマシーンさえあれば走ることができる。近くに畑や牧場がなくとも、家から徒歩5分のスーパーに行けばあらゆる物を手に入れることができる。
とても煌びやかである。そのような煌びやかな生活を送るある日、さっきのスーパーで果物を買う。これも煌びやかである。芳醇な香り、鮮やかな色、贅沢な甘味... 煌びやかな私達の暮らしにピッタリだとか思いながらそれを棚の上に置いておく。
3日後。小腹が空いた、そういえば桃があったなと思い棚の上の桃を手に取ると、すぐに異変に気づく。
軽く掴んだつもりの桃は指の形に沈み込み、見ると茶色に変色した果皮から汁が滲んでいる。そういえば甘ったるい匂いがぷんぷんする。腐らせてしまった。3日くらいなら大丈夫だと思っていたのに。
この時の気持ちを想像してほしい。その嫌な気持ちは、汚いと思ったから、もったいなく思ったからというのもあるだろうが、それだけでない。
煌びやかな物が不変ではないことを指摘されたからである。我々の選択によって永遠に続けることができると思っている煌びやかな暮らしも、もしかするとこの果物のようにくずれるかもしれないと無意識のうちに不安になってしまうからである。
逆に、お菓子を買うとしたらこのようなことはない。きっと賞味期限が過ぎる前に食べ終わるだろう。覆されることのなさそうな生活に安心していられる。これがお菓子の虚飾的なところであり、果物と決定的に異なるところである。
果物はこのようにして不変に見える近代の煌びやかな虚飾を、煌びやかの側から暴いてしまう。しかし、それは必要なことではないだろうか。かりそめの不変によって支えられている生活を捨て、絶えず流動する環境、そして自分を認めて、その流れに合わせてしたたかに生きるために必要なことではないか。
果物のまじめさは、煌びやかに見えつつも、世界の流動と向き合うことのまじめさである。そして私が東京にきてからスナック類を多く食べるようになり、果物を食べなくなったのは、近代都市に移って、かりそめの快適さに甘えるようになったからだったのだ。
きっと明日もスーパーに行く。そこで、いつものように菓子コーナーへ向かうのか、ちょっと立ち止まって、青果コーナーに向かうのか。
私は、果物を食べて、果物のようにまじめになりたい。
main.py
NOW_YEAR = 19 TOKYO_YEAR = 18 for i in range(NOW_YEAR + 1): if i == TOKYO_YEAR: break; print(f'{i}才のとき、果物食べた')
東京きてから
果物
食べなくなったなぁ
なるみ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
— なるみ (@Sunnarumi) May 6, 2021
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
102:名無し: 2021/05/07(金) 06:49:47.04ID:zwvkltyAd.net
110:名無し: 2021/05/07(金) 06:49:59.36ID:jeLDsaIhd.net
東京きてから果物食べなくなったなぁ
とうきョうきてからくだものヲたべてません
東京きてから果物食べなくなったなぁ
死東京きてから果物
食べなくなったなぁ
Recently, I haven't eaten
fruits
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったな
江戸に上りて後、
久しく果物食はず。
ねぇヒロ。東京にきてから、ウチ、果物食べなくなった。。。
いや嫁がLiLiCoだとしてもさ
てか
最近思ったけど
東京きてから果物食べなくなったわ
分かるかも
東京にうつってからラ・フランスをいただかなくなりましたわ
実家で暮らしていたころは、少しのぜいたくをする余裕もあり、常温保存するにふさわしい仏間などもあったものだから、よく果物を食べていた。
中学生、高校生のころ、自室での勉強を終えて台所へ行くと、祖母が小さな包丁でリンゴを剥いて出してくれたのが懐かしい。
しかし、上京して一人で暮らしはじめてからは、洗ったり皮を剥いたりするのが億劫だとか、一人で買うには高すぎるだとか理由をつけて、スーパーの青果コーナーに立ち寄らなくなってすらいる。
その代わりなのだろうか、チョコレートやクッキーと言ったスナックの類を毎日買うようになり、家の机の引き出しには個包装された甘味が尽きることがない。
これはおそらく不健康だ。身体的にもきっとそうなのだろうが、何より精神によくない。
同じ甘味とはいえ、果物にはスナックにはないようなまじめさがある。逆を言えば、お菓子を食べる人はなんとなく奔放である。
きっと、マリーアントワネットは「パンがなければリンゴを食べればいいじゃない」と言わないだろうし、
ニュートンがリンゴでなくアルフォートが落ちるのを見たとしたら、万有引力の発見は数十年遅れただろう。
アダムがピザポテトなどを食べてしまっていたら、人類が背負うべき原罪はもう8倍くらいは重かったはずだ。
妄言はこのくらいでいいとして、ここで疑問に浮かんでくるのは、果物と菓子の違いはどういったことによるのか、ということだ。
私は、なんと、驚くなかれ、その答えを知っている。簡潔に気持ちよく言い切ってしまうなら、果物は腐る、お菓子は腐らない、これだ。
我々は変わらずにいたい。それは近代人として基本的な欲求である。我々は生滅の均衡のもとで成り立っている自然を灰色の不動たるビルディングによってパックし、周囲の影響に対し様々に応答する自分の身体・精神も、処方薬や手術によりパックする。
その包装が虚飾に過ぎないことなんて、地球温暖化や健康寿命の減少などの近年噴き出てきた無数の問題をあげるまでもなく誰もが気づいている。安定な生活を享受したくて、気づかないふりをしているというだけだ。
そのようにして作り上げた同質な時空間は我々を制約しない。
夏だろうが冬だろうが快適に保たれた建物の中で暮らすことができる。どれだけ遠くにいる人とでも電話することができる。
狭い空間であってもランニングマシーンさえあれば走ることができる。近くに畑や牧場がなくとも、家から徒歩5分のスーパーに行けばあらゆる物を手に入れることができる。
とても煌びやかである。そのような煌びやかな生活を送るある日、さっきのスーパーで果物を買う。これも煌びやかである。芳醇な香り、鮮やかな色、贅沢な甘味... 煌びやかな私達の暮らしにピッタリだとか思いながらそれを棚の上に置いておく。
3日後。小腹が空いた、そういえば桃があったなと思い棚の上の桃を手に取ると、すぐに異変に気づく。
軽く掴んだつもりの桃は指の形に沈み込み、見ると茶色に変色した果皮から汁が滲んでいる。そういえば甘ったるい匂いがぷんぷんする。腐らせてしまった。3日くらいなら大丈夫だと思っていたのに。
この時の気持ちを想像してほしい。その嫌な気持ちは、汚いと思ったから、もったいなく思ったからというのもあるだろうが、それだけでない。
煌びやかな物が不変ではないことを指摘されたからである。我々の選択によって永遠に続けることができると思っている煌びやかな暮らしも、もしかするとこの果物のようにくずれるかもしれないと無意識のうちに不安になってしまうからである。
逆に、お菓子を買うとしたらこのようなことはない。きっと賞味期限が過ぎる前に食べ終わるだろう。覆されることのなさそうな生活に安心していられる。これがお菓子の虚飾的なところであり、果物と決定的に異なるところである。
果物はこのようにして不変に見える近代の煌びやかな虚飾を、煌びやかの側から暴いてしまう。しかし、それは必要なことではないだろうか。かりそめの不変によって支えられている生活を捨て、絶えず流動する環境、そして自分を認めて、その流れに合わせてしたたかに生きるために必要なことではないか。
果物のまじめさは、煌びやかに見えつつも、世界の流動と向き合うことのまじめさである。そして私が東京にきてからスナック類を多く食べるようになり、果物を食べなくなったのは、近代都市に移って、かりそめの快適さに甘えるようになったからだったのだ。
きっと明日もスーパーに行く。そこで、いつものように菓子コーナーへ向かうのか、ちょっと立ち止まって、青果コーナーに向かうのか。
私は、果物を食べて、果物のようにまじめになりたい。
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったなぁ
東京きてから果物食べなくなったな
うぽつ
88888888888888888888888
うまそう
混ざってなくね?
エッチだ...www
腕に何つけとんねん