Feeling

井の頭通りを歩く

散歩します。ただそれだけ...

井の頭通りを歩ききろうと思いたった理由は、コロナで最近外出していなかったから、普段からキャンパスや渋谷へ行くのによく使うから、 ブログに書く内容を探すため、先日買った初めてのデジタルカメラを試してみたかったから、ディープラーニングだとかwebプログラミングだとかのいつかのための勉強にうんざりしてきたから、 といろいろと思いつきはするんですけれども、分かりません。分かりませんが私はもう渋谷に来ています。

井の頭通りとは渋谷区宇田川町と武蔵野市関前五丁目を結ぶ道路の通称で、だいたい渋谷から吉祥寺までと考えてくれて構いません。 時刻は午後一時を少し過ぎたあたりで一番気温が高くなる頃ですが、西高東低冬型の気圧配置は東京特有の刺すように冷たい風をもたらし、行き交う人はみなコートを着ています。 私はネットの情報を頼りに井の頭通りの起点を探します。

どうやらここがその地点らしいです。東京に住む方ならああ、ここかと判別がつくと思われます。私は歩きはじめます。いったいこの雑踏のなかでここを井の頭通りの起点と知っている人は何人いるのでしょうか。 私は優越感を覚えました。最近私は分類に凝っていて、この木は剥がれているところがあって落葉高木だからケヤキだとか、黒い頭をしているが顔の周りは白い毛に覆われていて、くちばしは鮮やかな黄色をしているこの鳥はムクドリだとか、 そういうことにハマっています。私はおそらく近代都市・東京の現実性の無い暮らし、実体のないものを操ったりそれに操られたりする暮らしに嫌気がさして、人間はもっと眼前に現れるものに真摯に向き合うべきだとする考えに従おうとしているのですが、 その実践の手段として行っているのが近代の産物である分類なのは皮肉ですね。とにかく見慣れた景色を分類できたことへの優越感を覚えながら渋谷の街を中心から遠ざかる方向に歩いていきます。

少し歩くとNHKセンターが見えます。ここで今午後のニュースの放送をしているのだろうかと思いましたが、灰色の建物の中のことは分かりません。

そのNHKセンターのすぐ向い側、貸しビルの一階にSHIBUYA CHEESE STANDという店がありました。牛がいてかわいいですね。

聞き慣れない単語が並んでいますが気取った印象を与えないのはsans-serif体と角ゴシック体のおかげでしょうか。もう一時間後くらいに昼を食べるつもりでいましたが、おいしそうなのでこの店で食べることにしました。

マルゲリータです。私は今までにおしゃれな店のおしゃれなメニューの中から何度マルゲリータを選んできたでしょう。私がカプレーゼやタルティーヌといった横文字の海の上を彷徨う迷い鳥なのだとすれば、 マルゲリータはその中でぽつんと佇む羽休めのための岩礁なのです。身体に染み付いたその安定志向が良いことなのか否か、私には分かりません。生地は薄焼きで皮はパリパリとしていて、きっとこれがイタリアのピザなのだろうと思いました。おいしかったです

店を出て再び歩き始めました。井の頭通りは代々木公園交番前交差点に当たって左に曲がります。

代々木公園の木々は常緑樹が多く、冬晴れの空の鮮やかな水色に鮮やかな緑が映えます。

消火器が立ったまま死んでいました。

がんばれ!!!

自販機薄いなー

腹立ってきた

渋谷から一時間ほど歩いていますが案内標識を見るにどうやら今歩いている道が井之頭通りで間違いないようです。単調な歩行のリズムとピザの消化にエネルギーが使われていることで思考は散漫になります。 運動指令を出している大脳皮質がクリーム状になって自分の足が慣性のみに従って動いているような気分になります。私の脳裏にはなぜかピクミン3の「ここまで移動」機能が浮かびました。 ピクミン3の登場人物たちはスティックパッドで自在に動かすことができるのですが、マップを開いて目的地を選び「ここまで移動」を選択することでオートで移動させることもできます。 きっと私は今その「ここまで移動」モードの真っ最中で、マップから選ばれた吉祥寺へ何も考えずに向かっているのだ、という妄想が頭をよぎります。

いとしいアンバランス

遊び場という響きが私には妙に面白く感じられたのは、一時間半程歩いて蓄積した無意識下の疲労の証拠でしょうか。

京王線の代田橋駅に出ました。京王線及び京王井の頭線の路線図を知っているなら、ここで大体半分くらいかと思うでしょうが、実際はここから吉祥寺のほうが2倍ほどあります。

月や野鳥を撮るには望遠レンズが必要らしく、それだけで先日買ったカメラ(FUFIFILM X-A5)と同じくらいの値段がするそうです。カメラはお金がかかりますね。金、金、金...

覗くな

ペンキぬりたてって初めて見ました。ドラえもんとかサザエさんみたいな昔のギャグ漫画によく出てくるイメージがあったので、ペンキぬりたての注意のみでコミカルです。

試されています。

サミットの本部をついに見つけてしまいました。家の一番近くにあるスーパーはサミットです。サミットさん。レンジで5分チンするだけでいい肉と野菜が入ってる安いやつシリーズを売ってくれてありがとうございます。 わりと本当に週5くらいそれ食べてます。

※これです

物騒ですね

遠くに藍屋とジョナサンの看板が見えます。もどかしいですね...

歩道橋に登ればとても近くに藍屋とジョナサンの看板が見えます。歩道橋は便利ですね!

ほんとうは今日は梅の花を撮りに行く予定でした。一週間前くらいにキャンパスに咲いていた梅がきれいだったので、カメラを買って撮ってブログに書くぞと思っていたのですが、 一週間の間に花びらは散りだしたり色あせたりしてしまったのでした。マンションの近くに咲いている梅を見て、 アキレス腱を切った小学校の先生が言った「梅閃光」という言葉を突然思い出し、 梅閃光が何なのかを探して様々な梅の名所を巡るという内容の記事を書こう!とあれこれかんがえていたのですが、いざ外に出てみたら梅の盛りはもう過ぎていて、 そういう故事成語の人になったのかと思いました。「梅閃光」の話は嘘なので、結局「梅閃光」という言葉の意味は分からないままです。

叙々苑だけど叙々苑じゃない。この叙々苑はあの叙々苑からのれん分けしてできたそうです。

自販機薄いなー

警察に電話をかけますよ?

セブンに近未来が止まっていました。

一回目の緊急事態宣言発令後あたりにNews Everyから取材が来てそうな喫茶店

介護の木下じゃないの?

散歩が終わりに差しかかり吉祥寺に入り始めたことと空の端が何色でもないあいまいな色になってきたことと膝の裏が一歩を踏み出すごとにきりりと痛むことのすべてに連関がありました。 時刻は5時を回っていて、もはや日光はただそこにあるだけ、空気に混じって漂うだけになって風が吹くたびに気温が下がっていくように感じます。思えば4時間あまり歩いていることになります。

やはり思うように月は撮れません。4時間もたったのかと考えると私はむなしくなります。この4時間があれば途中でしおりを挟んだ本を読み終え、機械学習の技術を一つ身につけることができたでしょう。 疲労の蓄積はネガティブなニューロンのつながりをさらに発火させます。一人で何も考えずにぶらぶらしている、社会から孤立した人間。2021年に入って世間はClubhouseに熱中しているにもかかわらず、いまさらブログを始めた人間。 そのブログで存在しない行事を行って、どう?と聞いた知り合い全てに微妙な顔をされた人間。俺は結婚できるのか?就職はするのか?進振りはどうするのか?インターンって何?税金ってどうするの?バイトは続けられるのか? 引っ越しの手続きは何をすればいいのか?私には分かりません。

井の頭線の終点は吉祥寺ですが、井の頭通りはそこよりもう少し伸びていて、その終点はどちらかというとJR武蔵堺駅に近いそうです。目の前の学習塾から小学生の男の子が母親が顔を出しながら待っている車へと駆け寄っていきます。 私ももう帰ってしまおうか。絶対に歩き抜くというような確固たる意志のないままはじまった散歩を終えるのは簡単だ。簡単だが、そうであれば、確固たる意志のない私の生活はどうなる?そのような荒唐無稽なことが思い浮かんで、 私は、そうか、今日はそういう感じの夜なのか、と、気持ちの沈降を夜のシステムのせいにしました。これは一人暮らしをはじめてから身についた自己防衛のための技術でした。そういう感じの夜がいよいよ深まってきて、疲労の限界が近づいてきた私が踵を返そうとしているときに、かすかな光を放つそれが突然目に入りました。

すかいらーくグループの、鳥です。いつもはジョナサンのメニューの表紙の一番下やガストの机の上にある三角柱のアイキャッチの左上にひっそりと佇んでいる名もなきその鳥は、縦横1mほどあろうかと思われる看板となって目の前に現れたのです。 すかいらーくグループの鳥が放つ電光は眩いとはお世辞にも言えないほどのものでしたが、逆にそのことがこの鳥に気高い存在感を与えていました。私は水原秋桜子の「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」という句を思い浮かべすらしました。 そしてすかいらーくグループの、鳥の悲しみを浮かべているようにも、慈愛を湛えているようにも見えるその目は、私の目的地である井の頭通りの終点方向をしっかりと見つめているのです。「そういうことなんだな。」 私はそう口の中でつぶやくと、ふたたび歩き始めました。そこにはもう一寸の迷いもなく、終点へと向かう一歩一歩が物理的最適解をとりました。

再び歩き始めてから20分の後、私は片方の端が直角になっている標識を見つけ、ここが目的地だということを悟りました。思わず声をあげたくなるような高らかな喜びや胸のあたりからこみあげてくるような感動はなく、 ただ散歩を終えた自分がいるだけで、その幸せの形態が一番自分に合っていると思いました。これからも散歩は続けます。

夜ごはんはアメリカのファミレスらしいRED LOBSTERを訪れました。

蟹、おいしい