Feeling

ぼとるれたあ

瓶があった。

上京してから調理用に買った瓶だ。
今では自炊の習慣がすっかり抜けてしまい、これらは食器棚に埃を被って放置されていたものである。
このうちの二つは使ったこともない。

文字盤があった。

文字盤、というと神秘的に聞こえるが、ただの子供用の玩具である。
私はこういった玩具に弱く、雑貨店やリサイクルショップに入って、目に留まるミニチュアの家具や原色のおもちゃなどがあれば、その度に買ってしまい、一人暮らしのアパートの限られた空間は虚ろに埋まっていくのだった。
一周回って玩具が好きな気でいるが、一周していないということもあるだろう。

夏休みは今のところ毎日が暇だった。就職から逃げて大学院にいるのだから、この暇は望んだものだと言えるのだが、それにしても暇だった。
かといって海に出かけるといった夏らしいこともせず、ただ一人で家にいるだけなのだから、暇なのは当たり前のことだった。
休みの真ん中あたりの日、退屈を追いやるために、家にしまってあるものを引っ張り出して眺めてみて、そうしてからまた戻してみよう、と思い立った。
側からはこのことすら土を掘って埋めなおすような退屈なことに見えるだろうが、暇つぶしでやっているはずのことは全て退屈に見えるものだ。

そうしてさっきの瓶と文字盤が出てきたのである。

この板、何の遠慮もなく原色を使っているところがいい。
文字色も統一されておらず、地と文字、文字と文字が互いの色味を主張しあって、全体として毒々しい印象を与えている。
その幼稚性、遊戯性がいい。

何とはなしに、板から文字をくり抜いて、瓶の中に詰めてみる。

私はこの文字の瓶詰めに面白みを感じた。整然と並んでいた板の上では互いに押し退けあっていた文字たちが、窮屈な瓶の中に雑然と詰め込まれると、かえって調和があるように見える、という逆説もさることながら、 平仮名そのものが私の生活の次元に飛び出して存在しているということ自体が可笑しい。
小学生が遠くの友達を呼ぶ声をそのまま瓶に閉じ込めて、そこになにかの粉を混ぜるとひらがなが固まって、出てきた、と想像すると、ぴったりである。

さっきは文字を適当に選んで詰めただけだったが、意味を持つ言葉を詰めた場合、それはちゃんと伝わるのだろうか。

例えば、ここに詰められた文字は何という言葉になるか分かるだろうか?

答えは「ぼとるれたあ」、つまりボトルレターである。
瓶の中に、手紙でなく文字を入れても、letterであるのだからボトルレターと言えるだろうと思ったが、文字と手紙では意味が近すぎて駄洒落にすらなっていない。
けれども、文字の順番だったり位置だったりがばらばらだと、意外と伝わりづらいということは発見だった。

文字の数を増やして、言葉を尽くすほどに、何を言いたいのかが分からなくなるとは皮肉なものだ。

かといって、どうしようもなく湧き立ってくる類のものを、たったの一文字で表すことも、現実的では無いだろう。

そのときにふさわしい言葉の器を、常に選び取りながら、私たちは話さなくてはならないのかもしれない。

それならあの時に、私が選ぶべきだった器はいったいどういうものだったのだろうか?

予行演習だと言って訪れたステーキ店のデミグラスソースで満ちた皿の上に言葉を盛りつけていくべきだったのだろうか?

もしかしたらあんなにたくさんの人間があんなに長い時間をかけながら、今までに正しい器に正しい言葉がぴったりに納まったことは無いのかもしれない。それはかえって励まされることだと思いながら、ひとり遊びは続ける気でいる。

その気になれば器を綺麗に飾り立てることはできる。

だが言葉が装飾されていればいるほど、取っ払ってしまえば中身は低俗なものである。

言えなかった言葉が積もると、口から出るのを諦めた彼らは時に眼からの脱出を試みる。
そうなると視界は埋もれて何も見えなくなってしまう。

言葉の器に目盛りがついていたとしたら、何を言えばいいのかが分かるかもしれない。

当てもなくさまよっているように見えて、結局は同じところをいつまでもうろうろとしているだけだ、私は。

しかし、同じところを何度も回っているうちに、遠心力で少しづつ少しづつ離れていっていて、それが忘れるという事なのかもしれない。

私は、何を伝えればよかったのか?
留学に行くななんて夢を否定することは言えないし、なら一緒に行くと言うには私達は早すぎた。

今思うとこれだけの言葉を尽くしても、何も伝わらなかっただろうという気さえする。
きっと口にすればするほど何も言っていないのと同じになる。

言わなかった言葉の方にも価値があると思いたい。

しかし、私の沈黙は声にしない勇気ではなかった。

言うべきことと言わぬべきことが判断できず、口に蓋をしたばっかりにせり上がってきた自分の言葉に溺れそうになって、それでも黙ったままでいたらいつの間にか文字達はどこかにいってしまった。
多くのものを引き連れてどこかにいってしまった。

もうそろそろそれらの供養をしなければならない時期だ。

金魚鉢に保護眼鏡に風呂桶と、色々な物に文字を詰め込んで遊んでみたが、やはり私には瓶が一番しっくりきた。
発した言葉をなるべくそのままの形で伝えたいという私の誠実さの欠片が瓶を選ばせたのだと思う。

外房の海へ来た。
早朝に東京を発つバスをとったが、間に合わない時間に起きてしまい、結局着いたのは昼ごろになった。
日頃の外出不足がたたって、べたついた汗が逆に熱を閉じ込めていてじっとり暑い。

この海は遠く見えないところで米西海岸とつながっているという。

伝えられなかった言葉が内臓のもっと深いところに澱を作って重くなるならば、もしくはそれらがどことも知れぬ場所へ散ってしまって体に多孔を開けてしまったならば、その言葉をもう一度呼び戻して発するほか癒やす術はない。
この場合はもう伝わるかどうかは問題にならない。言葉がどこに流れ着くかは知らなくてもいい。

砂遊びをしてから帰ろうと思う。