荷物をまとめて、収録で着ていたジャケットのままで楽屋をあとにした。 エレベーターの中で丁度ごろに着くよと返信してテレビ局を出ると、車寄せには沢山のタクシーが並んでいて、その中の一番近かったものに乗った。
運転手は軽い咳払いのあと嗄れた声でこう訊ねた。
Q:どこまでにしましょう?

A: 西麻布のプリンテンプビルまで
柔らかい席に腰を下ろすのは五時間ぶりのことであり、思わずため息が出た。クイズは立ち仕事だ。それがバラエティ系ではなく、真面目系だったときは特にそうだと言える。
思えば、挑戦者たちが純粋に知力を競い合うという形のクイズ番組は昔はあまりなかったような気がする。幼い頃に見ていたのは、
■2004年スタート、大森敏行、西来理恵子が司会を務め、クイズに正解することで領地を奪い合うというルールで人気を博した、合戦!クイズウォーズ
などだった。
その頃の自分はクロスワードパズルとか、言ってしまえば稚拙な問題であるのだが、そういったものに正解できると父が褒めてくれるのが嬉しくて、それでゴールデンのクイズ番組は毎週のように見ていた。そうして究少年はクイズの世界にどっぷりとはまっていって、気がつけばクイズ王と呼ばれるまでに至ったのだ。
タクシーは東京湾を背にしてレインボーブリッジを走り抜け、プリンテンプビルまではおそらく残り半分で着くだろう。
■レインボーブリッジ。1993年開通、正式名称を東京港連絡橋という、芝浦地区と台場地区を結ぶ全長798mの吊橋。
クイズにおいては画像と一緒にして覚えなくてはならない。虹色にライトアップされた姿、東京アラートで赤くなった姿。
橋といえば、今日のクイズ、ズームアップ問題で、島根あたりだと認識した瞬間に江島大橋を答えられたのは自分でも少し引くほどだった。 同じ番組に何度も出ていると、その番組の出題傾向が無意識下で掴めてきて、情報が足りない段階でも早押しができる。そうして勝利を収めるとまた呼ばれるので、さらに出題傾向が掴めてくる。
このフィードバックの回路がはたらくようになると、もう誰にも止められなくなってしまう。
驕っている訳ではないのだが、誰か私に勝てる人はいるのだろうか?
もちろんあと十年も経てば瞬発力や暗記力が衰えてきて、押し勝つのがだいぶ厳しくなってくるだろうが、十年間クイズを続ける、ということをこれからの自分の上に起こることとして体内に飲み込もうとすると、どうしても異物感があって喉が押し返してくるような気持ちがする。
タクシーは銀杏並木の大通りに突き当たって左折し、黙りこくって窓の外に放っていた視線に重なったあれがおそらくプリンテンプビルだろう。上体を起こしてジャケットを真っ直ぐに直すが、意識はまだ同じ場所で低徊を続けている。
もしかするとテレビの画面の中の私に憧れた少年がクイズ道を邁進し、若い力をもって私を打ち負かすという胸の熱くなるようなこともあるのかもしれない。
さっきから負けることばかりを考えている気がする。しかしまた、「多忙」だとか「重圧」だとかいう言葉が意識に上がってくることは無く、
その原因がクイズという生業の根本の部分にあるものに由来しているということにいつまでも気づかない振りをしてはいられないのだ。
Q:私はこのままクイズを続けていてもいいのだろうか?

「えー、2980円になります。」
私は取り出してあったタクシーチケットで会計を済まし、タクシーの扉をばたんと閉じようとするが今のタクシーの扉はひとりでに閉まるようになっている。
やめよう。今から一ヶ月ぶりのデートだ。お互いに多忙なのだから、そんなことを考えている場合ではない。
何より、答えのない問題はクイズには出ない。
ドアが開いてすぐ横にいたウェイターに自分の名前を告げたとき、後ろから「お久しぶりです」とおどけた声がした。振り返るとマスクの上からでも笑っているのが分かる優紀がいて、私は「久しぶり」と返した。
優紀のダークブラウンのドレスの背中を前にしてウェイターに通されたのは、シャンデリアが薄暗く照らす店内の奥の奥、これはおそらく彼女の方に配慮してくれてのことだろう。
優紀、美濃優紀といえば世間的には売れっ子といった感じの若手女優であり、今や老若男女問わず多くの人に知られるようになった。
テレビではいつも横に分けて下ろしてある黒髪を今日はまとめ髪にしてあって、それが彼女のどことなく悧発さが滲み出る顔立ちを際立たせていたのだった。
少しだけ話し合ってコース料理を取ることに決め、シャンパーニュで他愛のない話をした。
「さっきここに来るとき夕焼けが綺麗だったの、究もみてた?」
「そうだったかも。」
「今日前に面白いって言ってたサンチャさんと共演したの。」
「この前YouTubeで見せてくれた芸人さん?」
「そう!でもなんか少し緊張してた笑」
「私、こんなお洒落なところあんまり来たことないの。」
「俺もだよ。朝ずっとテーブルマナーのサイト見てた。」
「それ、私も見てたかも。」
オードブルにホワイトアスパラガスのマリネが出されたあたりで、それを潰さないように上手に切りつつ、優紀は今までと変わらない口調で質問をしてきた。
「そういえばさ、ね、今日のクイズチャンプは、結果どうだったの。」
「優勝したよ。」
「あれっ。すごい。おめでとう。」
「おかげさまです。」
「なんか、あんまり優勝しましたっていうオーラが出てなかったから、ひょっとすると、だめだったのかなぁって思ってた。」
驚いた表情をした優紀の白く小さいおでこにゆるゆると走る一本の線が見える。今日の優紀の髪型はかなり好きだ。
「もう九回目の優勝になるんだって。だから少し慣れちゃったのかもしれない。」
「え。九回。もう前人未到だね。オンエアの日教えてね。録画じゃなくてリアルタイムで見る。」
いつものことだが優紀は私が番組で優勝した時には本当に嬉しそうにして、前は時計をくれたこともあった。銀の正円で縁取られた時計部が黒革のバンドを携えた、今しているシンプルなものがそれだった。
ホワイトアスパラガスを緑色の野菜ペーストに絡めて食べると、和らげられた酸味が程よく食欲を刺激してくる。
何か欲しいものはあるかと問われた私は旅行に行きたいと呟いてみる。いいね。八月とかに行けたらな。
長瀞、伊豆、金沢、伊勢、函館、沖縄、と互いに行きたいところを言い合い、話を膨らませる。地中海のどこかに行ってみたいと私にしては突飛な発言が口を出たのは、ヴィシソワーズの涼しげな味わいによるところが大きい。
お互いに忙しいから同じタイミングで長期の休みを取れることはなく、しかしそのためにこうして小さな夢について語り合うことができる。
優紀はお酒には強くない方だが、今酔っているのかは分からない。かすかに赤くなっているのかもしれない顔でこちらを見つめて彼女は話し出した。
「それにしても究はほんとにすごいと思う。私この前出たクイズ番組、下から四番目だった。 あ。……ありがとうございます。……うわーおいしそう。鯛のポワレだって。」
ウェイターが運んできた魚料理をつむじが見えるほどじっと覗き込んでいた優紀が顔を上げると、そこにささやかな企みの笑みがあった。ジェンガの一つを隠した少女のようだった。
「じゃあ、問題です」
Q:この、真鯛のポワレ、クリームソースがけ、の、ポワレとはどういう意味なのでしょう?

A:油を引いて表面を焼き上げる調理法のこと。
彼女はこのように、パンフレットを見て、DVDカバーの裏を見て、あるいは友人から豆知識を聞いて、私に問題を出してくることがあった。これは単に私がクイズに答えるのを見るのが好きなようである。
実際、バラエティー系のクイズ番組で初めて共演した二年前、彼女の方からいつも見てます、と話しかけてくれたのが私たちの関係の始まりだった。
モデルと演技の仕事で三年生の途中で高校を辞めて、だから頭が良い人と話してると新しくて楽しいのだと聞かせてくれたことがある。
「あ、私正解分かってない。」と彼女の声が頭の中か外か区別がつかないところで響く中、私はポワレを口へ運んだ。
格子窓の外は高層ビルの光で灰色に輝く夜で、なんとなく蒸し暑そうだった。店内をうっすらと反射するガラスに彼女の姿が見えて、目を手元のパンへと伏せる。
「寒いの?」と彼女は尋ねた。私から言わせると、人の心の動きを捉えるまなざしを持つ優紀の方が知的だと思う。
「寒そう。」
その後、肉料理で出されたのは鴨のコンフィ、低温の油で長時間加熱調理したもの、デセールはベリー系の果物を印象的に飾り付けており、優紀ははしゃぐのをこらえきれていない様子だった。無論迷惑には決してならない程度にである。
食事を終えた私達は今度は同じタクシーに乗った。直感の通りに外は蒸し暑く、優紀が店を出たすぐの道をちょうど通ろうとしているタクシーをとっさに捕まえたのだった。
私達という恋人間では、どちらか片方の家へ訪れるという出来事の際、いつの間にか彼女の方の家が選択されることに決まっていた。
それは優紀の家のテレビの方が二回りも大きいからというのが一つで、もう一つは、私のマンションには他の階に俳優が住んでいるらしく、一度彼が週刊誌に抜かれて以来、巻き添えを食うことを避けるためであった。
私達はあまり派手に遊び歩くタイプでもないため、報道が立ったことはまだない。そういう理由で優紀の家に行くというのが私達の間で暗に決まったことだった。
最近のタクシーでは、外から窓の内側は見えづらくなっている。車内では先程のフルコースの感想戦が行われている最中だった。
「私はやっぱりデザートもよかったけど、肉料理が好きだったな、鴨の。究は?」
「俺か、んー、難しい。結構オードブルのホワイトアスパラガスのマリネが好きだったかも。」
「おー草食系だね。でもたしかに、好きそう。」
彼女はやはり少し酔っていたのか、額がつきそうなくらいに窓に顔を近づけて、小さくあくびをした。
車内に拡がった沈黙は心地よい類のものだった。なにか、胸と腹の真ん中あたりがうずうずとして、照れくさいような気持ちになっているのが分かった。
もしかすると俺は今から優紀にプロポーズするんじゃないか?という感じがしてきて面白かった。優紀にも今、同じうずうずがあればいいと思った。
私達は付き合い始めて一年半になる。将来のことを考えると、私は、今のまま進むキャリアでは彼女のことを支えられないのではないか、と思うことがある。
あくまで昨今のクイズ人気はブームの一環であり、今クイズタレントとして起用があっても、案外来年にはどうなっているのかは分からない。
対して優紀は、女優として、私の素人目から見ても才能がある。あまりメジャーではないものだが、国内賞もとっているのだ。これはおそらく優紀の、先程の私に、「寒いの?」と問いかけた時のような、心情の機微への目ざとさが関係しているのだ、と踏んでいる。
彼女が名女優として名を馳せるようになったとしても遠慮や畏れ多さなどはないと思うが、だからといって職無しで側にいるわけにはいかない気がする。
転職を見越して経営法などでも学んでおこうか。でも、優紀は私が作家などという形だとしてもクイズに携わっていたら喜んでくれるだろう。窓の外を見ている優紀を見ている。
そうなると問題は、最も悩ましく、向き合わなければならない問題は、最近私にあらわれてきて徐々に肥ってきている、クイズをめぐる精神上の問題なのだった。
タクシーは大通りを抜けて右へと曲がり、そのときに少しだけ触れた彼女の右手がいつもより熱かった。
私にさっきのうずうずが再び蘇り、私は今、ここで、それを優紀に打ち明けてしまいたかった。今なら言える気もした。
しかし、気を窺ってその横顔にじっと送っていた視線に気づいた優紀が恥ずかしそうに「ごめんね、少し、眠くって。」とはにかむと、心の中にあった小さくて熱い球のようなものは途端に輪郭を歪めてしまった。
それで私は意気地のないことに、次のような婉曲しすぎたかもしれない形で伝えることになった。それでもこれは意気地なしにとっては一つの大きな賭けだった。
「ねぇ、クイズのコツ、教えてあげる。」
「え!知りたい!」
「あのね、クイズって色々なジャンルのことが出題されるでしょ。それの全部を理解して頭に入れることって、到底無理で、俺もそうはしてないのね。」
そう、古今東西の小説がどんな内容なのか、フランス料理にはどんな調理法があってそれらがどのような風味を引き出しているのか、決してその一つ一つを知っている訳ではない。
優紀は真面目な顔で相槌をうっている。
タクシー内には冷房が効いていたが、耳が風邪の時のように火照っている。
「その代わりにね、世の中のものをいくつかのキーワードで置き換えるの。例えば、入道雲を見たとします。すると、大きいなーとか、雨降るのかなーとか思う代わりに、入道雲、積乱雲の通称。関東では坂東太郎、大阪では丹波太郎、福岡では筑紫太郎と呼ばれる、って思うようにする、みたいな感じで。」
そう、私のまなざしはこういう風にあらゆる物体を獰猛に解体する。その対象は建造物や食事、ときにそれは共演者など、人に及ぶことすらある。
優紀は難しいと言うように目を細めてはいたが、ふんふんとうなづいてかみ砕こうとしてくれているのが分かった。
ここまで来たので続きを述べない訳にはいかない。
「そうするとさ、クイズで出るのはそういうキーワードだから、直で結びついてる答えがすぐに出てくるし、あんまりリソースを使わなくて済むのね。こうやって、ものの実体というか、ボディを、ラベルで全部置き換えることで、クイズに強くなることができるっていうのが、コツ。」
そう、そしてそのラベルの色は高層ビルのような灰色をしている。
だから、私の目の前のものの色というのか、ときめきみたいなものが段々と消えていく。
一度クイズで出たことがある本を気になって読んでみたことがあった。その小説には、遺作、未完、喜劇といったラベルが貼られていた。
最初の三ページまで読んでみたものの、目は紙面を滑るばかりで言葉の意味を捉えず、頭の中では
■「未完。未完。未完。遺作。遺作。遺作。喜劇。喜劇。喜劇。」と響いて私はただ本を閉じるしかなかった。
さっきのフルコースでも、いや、俺には優紀を責めるつもりなど一切ないのだが、クイズに出された真鯛のポワレは内に持っているはずの水分を失って噛むたびに
■「油を引く。油を引く。油を引く。表面を焼き上げ。表面を焼き上げ。表面を焼き上げ。」と繰り返されるだけだった。
最近の私は殺人鬼の性質を隠し持っている二重人格者のようだった。自分の意思に反して、目に映るあらゆる物からみずみずしい内容物を剥ぎ取ってしまう。
このクイズ王の苦しみはクイズ王に固有の物であって、誰か完璧に理解してくれる人がいないということは分かっている。
分かっていても、私は今、ひどく遠回しな言い方だが、それを告白することができた。
一息で言った訳でもないのに息切れしたような気分になり、少し呼吸が荒くなる。
優紀は少しの間、前の座席にかかっているレースを見ていたが、こちらの方に首を向けた。目が合うと、さっき触れた手の温度が思い出された。
「それってすごく大変そう。でも、やってみる。私、クイズ女王になっちゃったら、どうしようかなー。」
優紀は今、眠かったのだ。収録もあって疲れていて、しかも酔っていた。等間隔の街灯の光を次々に通り過ぎるタクシーの車内は懺悔室たり得なかった。
これは私が悪かった。タクシーはやがて目的地へと止まり、私は、この車内での出来事に対して払うかのような気持ちで一万円を出し、釣り銭を断った。
彼女のマンションは絨毯張りの通路を建物の中に隠していて、ホテルのような構造をしている。私たちはエレベーターでも廊下でも誰ともすれ違わずして七〇九号室へと入った。
優紀は玄関の電気をつけ、リビングの電気をつけ、エアコンのスイッチを入れた。私はクリーム色のソファの右側へ座ることになっていた。
最近は忙しいのだろう、いつもリモコンと筆記具、ときに雑誌が置いてあるだけの目の前のテーブルに、空いたのが二本、二割ほど残ったのが一本の水のペットボトルが置かれていた。
しかしそれはコントレックス、フランスのコントレクセヴィルで採れる湧水の、ダイエット、美容効果があるとされる硬水で、私の中で彼女の清潔感にマイナスにはたらくことはなかった。
優紀はノンアルコールカクテルの缶をテーブルに二つ置き、三つのペットボトルを流しへと持っていった後、私の左へと腰を下ろす。
「この前の、とってあるよ。Qサバイバル。」
「俺のはいいよ、優紀のが見たい。」と誘導して、カクテルを一口飲んだ。
テーブルに置いた缶を手持ち無沙汰にくるくると回し、ラベルのない面が正面に来るようにした。
優紀はしょうがないなぁと言ってリモコンの電源を押すと、クーラーの稼働音だけであった室内に、楽しげなBGM、ロケの芸人のリアクション、大勢の観客の笑い声が重なって流れる。
華やかな画面は一瞬で番組名が無感情に並んだ録画一覧へと切り替わり、優紀は未のマークを次々に物色する。身を乗り出していた優紀がこれだと決定ボタンを押しソファへ座り直すと、皮張りのソファへ沈み込む感覚の中でお互いの体側が柔らかく反発しあっているのが分かった。
番組は男性アイドルグループ「蘭道」によるアトラクションバラエティの「Run!蘭!乱!」で、ドラマの番宣チームのうちの一人として美濃優紀が紹介されていた。
優紀と一緒に彼女が出ているドラマを見ることはなく、それは優紀が見ていると怖い顔になってしまうからといって断るためであった。
二人でテレビを見ることの真意は同じ時間の共有にあり、二人はその時一言二言を交わす程度だった。
特筆すべきことではないのかもしれないが、その中で以下のように淀んだ会話があった。
ステージとステージの合間、天の声に初めてのデート先を聞かれた優紀は中学生の終わりに富士急ハイランドに行ったと話した。
優紀「これ、嘘ついちゃった。」
私「富士急じゃなかったの?」
優紀「違くて、中学生の終わりに、のところ!」
私「実は小学生の頃でした、みたいな?」
優紀「えー?行ったじゃん。」
私「あーー。行ったね。二ヶ月前だっけ。アニメとコラボしてて。途中から雨降っちゃったよね。」
優紀「えー?うん。」
サードステージを見ている時だった。トロッコに乗って道すがらにあるレバーや紐を引っ張ってコースを変更して得点の稼げる方を目指すという仕組みの人気アトラクション、アミダトロッコで対決が行われた。
ドラマチームからは優紀と人気俳優の神元が挑戦することになった。
■神元賢司、七年前に仮面ライダーレイヴンで主演し、二年前に映画「太陽系の女」で日本アカデミー助演男優賞を獲得した俳優で、私や優紀より一回り年上の三十三歳。
二人は同じトロッコに乗って意気込みを話していた。優紀は番組のヘアバンドをして後ろ髪を結び、余った黒髪を幾本かバンドの脇から垂らしている。
トロッコは開始のブザーののちにゆっくりと前方へと滑り出す。
やや中央寄りの右側に立っている神元が主にレバーや紐を操って得点が書かれた風船を割っていく。優紀も時々自分の側に出てきたレバーを引いたり引かなかったりしてうまく点数を稼いでいる。
トロッコは時間が経つにつれてどんどんと加速していき、進路のスイッチがあるたびにがたんがたんと大げさに音をたてては右へ左へと奔走する。神元はトロッコの柵に掴まって直立を保ちながらなおもがっしりとした手で紐を引いてゆくが、優紀は時折バランスを崩して身をよじらせキャーと悲鳴か歓声かを上げて両手で柵をぎゅっと握りしめていた。
金の風船を目の前右にして優紀のいる側の左前にレバーが現れる。
画面の中の優紀が混乱の中かろうじて左手を伸ばしレバーを右へ倒すと、その計算された隙を狙ったトロッコはその体をぐぐっと傾けて、優紀は右方、神元のもとへよろけてしまう。神元はとっさにその腰に優紀の身を預けさせて、左の手を優紀の腕に回す。
瞬間、隣の優紀は私を見る。私の眼の中に生じた色が見たくて、顔を覗きこんだのだ。
とっさの視線を投げられた私も優紀の方を見る。眼の端ではカクテル缶に結露した水が滴り落ちてガラスのテーブルの上に輪を作っていた。
優紀の表情は弁解のようであり、逆に質問のようでもあった。優紀の求めるものが私の眼の中にあると気づいた私は自分でもそれを確かめたくて、彼女の瞳を、それが反射する私の眼の色を探して見つめ返す。
こうして至近距離で見つめ合う二人の恋人の構図が出来上がって、沈黙が生まれた。
不思議なことにテレビから流れているはずの音のみが遮断されていて、エアコンの空気を送る音が空間を満たしている。
私は先程タクシーを出たときにぼんやりと、今日はこのような間が生じることはなさそうだ、と予感していたために、沈黙を破って自分から発すべき言葉がどういうものであるのかが分からなくなってしまっていた。だから優紀の方が私に言った。
「いい?」
その合図が疑問の形をとっていたがために、私の精神の中で獰猛な何かが目を開く。
頭の中で軽快な音が流れる。
Q:2021年に「スイートピア」でアプリコット賞を受賞し、ドラマ「考古学者Jの発掘捜査」や「スパゲッティ・コード」に出演、「ウミネコ島診療所」では主演を務めた女優の名は?

A:美濃優紀
私の唇に皮膚の感触があった。彼女の顔は私より一回り小さいがために、私の目には彼女の額に一本の皺が浮かんでいるのが見えた。テレビからようやく音が聞こえ始めた。最後の最後で道を誤って-500点のゾーンに到達したトロッコを観客の笑い声が包んでいた。